結城さんの日記の記事に吃驚。
キリスト者であるという僕の立場(?)上、当然といえば当然のことなのだけれど、「進化論的世界観」、つまり
この世は「偶然」にできたものであって、まったく存在には意味も意図もないのだ、背後には創造者などはいないのだ、という世界観
は有害という見解にはもちろん賛成で、だから、結城さんの見解に吃驚したわけではない。では、なぜ吃驚したかというと、そこに書かれていたのは、僕がずーっと書きたい(表現したい)と思っていたことばの、裏側だったからだ。いや、ひょっとしたら僕が書きたかったことの方が裏なのかもしれないが、どっちが表でどっちが裏かなんてことは重要じゃないので、とりあえず「裏側」としておく(なお、僕が結城さんの記事に吃驚した理由はもうひとつある。それは僕にとってはある種の伏線に見えたある出来事の直後に書かれた記事だからだ。なお、その出来事というのは、僕以外には何のことやら、ということのはず--そのようなことを伏線だと思っている時点で実は僕は「進化論的世界観」に敵対している--なので、その「理由」を明らかにすることは避ける)。
さて、では、僕が何を書きたかったかというと、ここはわざと抽象的に書くのだが、一言で書けば、人間が、ある事象をどのように読みとるか、ということについて、だ。
生活の中には、嬉しい出来事、悲しい出来事、腹のたつ出来事、やりきれない出来事、記憶から消したい出来事、そもそも何と表現していいのか分からないような出来事など、いろいろな出来事がある。そのような様々な出来事を、受けとり、読みとっていくということは、どんなに目立たない生活の1シーンに過ぎなくても、崇高ではあるが、苦労の多い作業だと思う。ましてや、単に読みとるのではなく、積極的に評価することは困難ではないかと思う。
往々にして、そのような崇高な作業を黙々とこなしている努力家を、キリスト者の中にではなく、キリスト者という縛りの外にいる人に見出すことがあり、正直なところ、そのような人の心の方がずっと気高いと思うことがある。なぜなら、キリスト者である僕はとても怠惰で、自分ではそのような崇高な作業を遂行し得ないからだ。
僕は、その努力を禁止したいわけではない。そうではなくて、遂行して頂きたいと思っている。けれども、僕のような怠惰な人間には、怠惰な人間なりの「やり方」がある。それは、本当は僕だけの「やり方」ではなく、努力家にこそ相応しい「やり方」なのだ。僕は、その「やり方」を「偶然」知っているに過ぎない。
努力家のために祈らなければならないことは、分かっている。ただし、それは、キリスト教を信じるに至らせるためではない。
閑話休題。
「なんでPerlでは(他の言語にはない)コンテキストという概念があるんだろう?」というのが以前からの疑問だったのだけれど(コンテキストという概念の理解が不十分で、痛い目に遭ったことがあるので…)、たった今「実はLarry Wallならではの一流の洒落なのではないか?」という仮説が立った。しかも、この仮説をたてた途端、僕はニヤニヤしてしまったのだ。
もちろん、誰かに理解されようだなんて思ってないので、放っておいていただければ感謝である。
僕はそうは思いません。人生に意味や意図を付与するのは頭のいい
人間だけの特権であり、ハエやゴキブリのような本能のみで生きて
いる生物の命の意味を否定してしまうことになります(あるいは不
幸にして植物人間になってしまった人を例にしてもよいでしょう)。
全ての生き物が平等に生きる権利を持つなら、ダーウィニズムの謙
虚な考え方は素晴らしいものだと考えます。
#論点がずれてたらごめんなさい。
コメントありがとうございます。そうですねえ。以下がお答えになるかどうかは分かりませんが…。
人生に意味や意図を付与するのが「頭のいい人間」だけだったら、確かに傲慢だと思います。ただ、私は、自分の人生に自ら意味や意図を付与しようとは思っていません。それは、私がキーワードにした「読みとる」こととは正反対の行為ではないかとすら思います。
私の人生に意味付けをする第三者は別にいて、その第三者は「不幸にして植物人間になってしまった人」や「ハエやゴキブリのような本能のみで生きている生物の命」の意味付けもする、ということです。
もし仮に、その第三者がいないとしたら、「進化論的世界観」に立って生きた方がよほど謙虚だと思います。
(ここからは蛇足かもしれません)すると、創造者が(ある意味独断で)決めた私の人生の意味を読みとるだけの人生ってつまらないんじゃ? という話になるとは思いますが、実際にやってみると、これはなかなか面白い。自分の生活の中の出来事から「読みとる」ことを拒否していた頃に比べると、私の考え方に固執することから解放された分、面白いのです。