朝、職場のビルのエレベータで、見掛けない雰囲気の女性と乗り合わせる。下のテナントに勤務している女性という感じではない。降りるフロアが同じなので、もしかして、と思ったら、今日から勤務する人のひとりだった。
今日から職場はチームが微妙に改変されたので、朝、ボスから簡単な説明があった。新しい体制を記したプリントを眺めて、僕が、チームのヒラメンバーの中のトップにリストアップされていることに気付く。単純に業務経験が相対的に長いのでそうなった、というだけの話で、決して「とてもとてもがんばって出世しました」ということではない。
けれども、僕のチームにも新人の男性がやってきているし、同じチームのメンバーはみな僕よりいろんな意味で若い人ばかりなので、自分のポジションは自ずと決まったようなものだ。
気をひきしめて、いきまっしょう。
映画の日なので、上司には申し訳ないなあと思いつつ、定時退勤して新宿三丁目の新宿スカラへ。関口を…もとい、『スウィングガールズ』を見に行く。
今度は筋が分かっているので、笑うところでフライングしないようにすることに腐心する。
映画として雑だ、という見方もあるようだけれど、僕には、わざと荒く作っているように見えた。徹底した端折りと徹底したご都合主義をあえて採用しているように感じた。それでも妙にリアリティがあるのは、演奏が彼女たち自身だからなのではないかと推測する。
ところで、2回目を見ると、今度は友子と中村のその後が気になる。
ついでに購入。
欠陥とか脆弱性という言葉は、本来は単に事実を指す言葉であるが、社会的な気運のなかで、言葉にネガティブなイメージが付きまとうことはあるかもしれない。しかし、だからといって、技術者が、そうした言葉で表現せざるを得ない事実の指摘を受け入れがたいと感じるようでは、個人的軋轢や社会的困難が生ずるであろう。
高木さんの主張に関して、技術者として特にここで書くほどの感想や意見があるわけではないのだが、今回はさすがにちょっと考えさせられた。
上で引用した一文は、単なる技術的な指摘ではなく、人として考えておくべきことがらへの鋭い指摘ではないかと思うのだ。
(註: 以下、あくまで特定個人についての言及ではなく、一般的な話として書いている)
さて、本来は事実を指すに過ぎない言葉を向けられたときの対応について、言葉を受け取る側の感情が揺れるであろうパターンを考えてみる。ひとつめは、事実を指す言葉に、言葉の送り手が意図的にイメージや感情を乗せていて、受け手がそれを受け取った場合。ふたつめは、事実を指す言葉に、言葉の受け手が、送り手が意図しないイメージや感情を乗せている場合。
自分の感情が、後者のパターンの上で成立していることに気付くか気付かないか、というのは大きな分かれ目だと思う。後者のパターンはすなわち認知の歪みであり、認知の歪みがないかどうか気をつけておかないと、高木さんの言葉を借りれば「個人的軋轢や社会的困難が生ずる」のではないかと思う。
正直なところ、この話はたぶん、僕のオリジナルなどじゃないな。いろんな人が言っていることを僕も言っているに過ぎない。リンクしやすいところでひとつ指し示しておくと、結城さんが「事実と評価は異なる。自分をゆさぶる何か(事実)があったとき、まず、それをよくない(評価)と感じている自分に気づくこと」と表現していたことと、同じことだろう。
僕は、事実の指摘を事実の指摘として読みとる訓練を、十分にこなしてきただろうか、と思わされた。
(2004-11-20追記)
otsuneさんの日記からリンクされていたので言及しておくと、otsuneさんのおっしゃっていることは、たぶん前者、つまり「事実を指す言葉に、言葉の送り手が意図的にイメージや感情を乗せて」いる場合のことだと思う。違ってたらご指摘いただきたく。私が主に考えていたのは後者、つまり「事実を指す言葉に、言葉の受け手が、送り手が意図しないイメージや感情を乗せている場合」。
otsuneさんの指摘に異存があるわけではない。