あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」
『ヨハネによる福音書』3章30節より。
僕は、埋没する個性になりたい。生きた証というものをどこかに刻もうと腐心するあまり、生きる喜びを見失う危険はとても高い。僕が僕であるということは悪いことではないのだけれど、僕が僕であることを表現しなければならないという束縛はよいことではないように思う。
僕のことなど、みんな忘れてくれていい。そう思うこともある。
教会学校担当の方が講師の予定をとり違えていたらしい。私ともうひとりの方が今日のお話担当として入れられてしまっており、結局私が来週にまわることに。
それはそれとして、教会の先輩の証しを聞くことができてこれはこれで恵まれている。
牧師は別の教会の方で、女性。司会も、女性。受付も、女性。うちの教会にしては珍しい。
今日の聖書個所はルカ1:26-56。エリザベトの謙遜に焦点を当てた説教。さて、洗礼者ヨハネとイエスは従兄弟同士だったという話もあるのだが、そうすると年下の従兄弟に対するヨハネの謙遜と、エリザベトの謙遜には何か関係がありそうな気もしている。
クリスマスに向けて。
ケイちゃん(仮名)にいぢられて過ごす。
ほそのさんはほそのさんでいいじゃないですか?肩の力を抜いてありのままの自分でいましょうよ!ありのままの人間を神様は受け入れてくれるのだと思います。私は教会でそう習いました。(カトリック)
私は同意します。今、非常にシンクロしてるっぽいです。
ツッコミありがとうございます。sophiaさんのおっしゃること、わかります。
で、問題は「ありのままの自分」というのが何なのか、ということですね。厄介なのは、人間は「ありのままの自分」をさえ作ろうとしちゃう傾向がある、ということではないでしょうか。
文の雰囲気はいかつく見えるかもしれませんが、僕の中では、楽でしなやかなイメージなんです。はい(僕のイメージの中では、この場面での洗礼者ヨハネはむしろ、微笑んですらいたんじゃないか、ってくらいです)。
確かに、たぶんシンクロしてますね。> Jさん
何か悩んでいるような文章(埋没する個性になりたい)にお見受けしたので・・・(私がツッコミを入れたときは主日礼拝の文章はなかったので。)そうじゃなかったのか。ああよかった。(^.^)
まぁ確かに「個性」と言う言葉に敏感に反応するあたり、
「個性」に束縛されてるんだなあ、という感じがします。
一度あなたがあなたである事を表現し、それに導かれた者たちがいるのに、自らの存在を消すことで、導かれた者たちを路頭に迷わせ、それでいてみんな忘れてくれというのは、あまりにも無責任すぎませんかね。
キリスト教的にはあんまり無責任な気はしません。
アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたが
たを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えら
れた分に応じて仕えているのである。
わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さる
のは、神である。
[1コリント 3:5,6]
ってことですから、主にあって路頭に迷うことはないはずです。
細野さんはパウロになりたくもなれない人なのでしょう。確かに無責任で身勝手だし、それを正義と勘違いしているのでは。そのことであなたから離れていく人も多いと思いますよ。自分のことなど忘れてほしいとさえ思うなら、この日記も存在自体無意味で、読み手に失礼ですよ。takahataさんに同意。
そもそも私は「みんな忘れてくれ」とは書いていないのですが…。「僕のことなど、みんな忘れてくれていい。」というのは、「私のことが忘れられようが、覚えられていようが、どちらでも構わない。私のことが他人の記憶に残るか残らないかには、こだわらない」という意味です。
なお、私が、私自身のことを本当に忘れて欲しいと願うのならば、私は日記を閉じるという行動に出るでしょう。
日記もいいけど、たまには某MLにも書いてね(笑、内輪ネタ失礼)。