そういえば昨日、会社の同期が、2ヶ月でやめてしまった同期の女の子に手紙を書きたいので、連絡先を知ってたら教えて欲しい、というメールをくれていたのに気付いて、探しだして連絡先を教えてあげたことを思い出した。彼女はどうしているんだろう。
ところで、何度か同期の退職に直面して、働くということについて、僕とて少しは真面目に考えるようになった。そして、自分自身の問題である、ということを考えると、お上をはじめとした他者に期待している暇はないように思うのだ。確かに主張には一理あると思うことは思うのだけれど、親が教えてくれなかったから、社会が教えてくれなかったから、国が手助けしてくれなかったから、という枕詞を口にすることに繋がっているようで、僕の中ではおさまりが悪い。親にそこまでの責任があるのか、社会にそこまでの責任があるのか、国にそこまでの責任があるのか。
国も社会も手助けするな、と言いたいわけではないし、ニートと呼ばれる人たちの気持ちもまるっきり汲みとれないわけではない。でも、なんとなく釈然としない気持ちが残る。
日本では案外、キリスト教信仰が盛んなのかもしれない。
この前の日曜日のこと、キリスト者の友人の女性が、自分の母親に、教会が清廉潔白な人の集まりでないことをほのめかしたら、そのことをとがめられてしまった…らしい。教会は正しい人の集まりでなければいけないらしい。その話を、たまたま居合わせた牧師と僕は苦笑いしながら聞いていたのだけれど、なるほどね、これがキリスト教信仰なのだな、と思った。
キリスト教徒でない人が、キリスト教徒が清廉潔白な人であるというイメージを持って、それを期待するというのは、冷静に考えるととてもおかしい。自分が昔そのような期待をしていたからこそよく分かるのだけれど、それは傲慢以外の何者でもない、とすら思う。自分では行動規範とするつもりのないものを、他人には行動規範とするように要求しているわけだから。
キリスト教信仰は、キリスト教を自分の都合のいいように持ってこようとする力を帯びていることもある。こうなると、厳しいようだが、キリスト教信仰はもはや有害と言わざるを得ない。キリスト教の核心である、自身の罪の認識と贖い、魂の救済といった要素には目もくれず、罪の認識なき救済と平安を求め、自分では遵守するつもりのない規範を他人に遵守するよう求める、不遜な魂の態度ができあがってしまってもおかしくはないと思う。
幸いにして、僕の友人は、僕の宗教に関係なく友人づきあいをしてくれるし、僕がキリスト教徒であることを当てにしない。僕も普通に友人づきあいをすればいい。正直言って、友人が信仰を持とうが持つまいが、僕はどうでもいい。というか、僕にはどうにもできない。友人が、信仰を持ったとしたらそれはそれで喜ぶべきことだと思うけれど、その決心を僕は左右したくない。下手にキリスト教信仰に走ってもらうよりはずっといい。
キリスト信仰とキリスト教信仰、この似て非なるもの。けれども、日本では案外、キリスト教信仰が盛んなのかもしれない。
年齢の増加による健忘症ですか?
ああー、とうとう健忘症が! やっぱり30歳になりたくないー! …というのは嘘ですが。
私の友人は「クリスチャンの友人から”ウチの教会には来てほしくない”」と言われたそうです。そんなクリスチャンはいるのかと疑ってしまうのですが…
うーむ、小学生の頃ハンカチ忘れたりノート忘れたりは<br>しょっちゅうだったけど、それも健忘症だったのだろうか?(笑)<br><br>ニート急増ってそんなに問題なのかな?<br>働かなくても生きていける社会、考えただけでも素晴らしい(笑)<br><br>#あーまた(笑)を使いまくってしまった。
ぼくはプログラムを書いていなかったらどうなっていただろうかと良く考えます。九州へ引っ越して、雇用や教育の問題を真剣に考えるようになりました。<br>さて日記にコメントしますと、この記事では本人の意思はさておき、社会の側が彼らに働くよう希望しているという側面を報じているわけですよね。教育も職もない人間があふれているというのは、かなり怖いことであるわけなので。